●日程:2021年4月29日(木)~30日(金)
●メンバー:ゆきち
鎌倉比企ヶ谷の日蓮宗長興山妙本寺に、江戸時代の高さ3.6mある宝篋印塔が二基並んで建てられている。
それは徳川家康の側室お万の方(養珠院(ヨウジュイン)、1577~1653)と、お万の方がその生涯、師として宗祖日蓮聖人の再来と尊崇してやまなかった心性院日遠(シンショウインニチオン、1572~1642)上人の供養塔であり、これに関連して昨年トピックス2篇「お万の方(養珠院)の七面山登詣」(7月30日付)および「お万の方(養珠院)と日遠上人」(12月11日付)を書いた。今回私の最後のトピックスとして、改めて養珠院お万の方の女人登山の禁制解禁における偉業に思いを寄せるとともに、私の悲願でもあった七面山山行について述べる。
文永11年(1274)日蓮聖人は佐渡配流を赦され鎌倉に帰るも、3度鎌倉幕府を諫めたが意見は容れられず無意味と分かり、信徒であった南部(波木井)実長に招かれ山梨県身延山に入り、鷹取山のふもと西谷に6月17日草庵を構えた。この日をもって開創とし、その後発展したのが現在の日蓮宗総本山久遠寺である。日蓮聖人がこの地に滞在すること8年4か月、体調不良により湯治療養と両親の墓参のため下山するまで、一歩も身延の外に出ず、読誦・唱題といった生活の中から子弟の教育と著述活動に専念した。弘安5年(1282)10月13日、日蓮聖人は常陸の湯への旅の途中、武蔵国の信徒池上宗仲の館で寂した。遺言により御廟は身延山久遠寺にある。
さて伝承によると、建治3年(1277)9月、日蓮聖人が身延西谷の草庵の近くにある高座石でいつものように法を説いていると、妙齢の美女が熱心に聴聞していた。南部(波木井)実長ら弟子・信徒が不審に思っていたところ、その正体を見抜いていた日蓮聖人は、その女人に正体を現してあげなさいと言う。すると女人は水を所望し、聖人は信者に命じ水の入った花瓶を与えた。女人が水を一滴手のひらに落とすと、たちまちにして一丈余りの龍に変じ、恐ろしい形相で花瓶にまとわりついた。この光景を間近に目にした人々はおじけづき、尻込みをした。ややあって人間の姿に戻った女人は、「私は七面山の池に住むものです。身延の裏鬼門をおさえ、身延一帯を守っております。この末法の世を救うために現れました。法華経を信仰するすべての人を守護し、諸願成就の一途な求道を見守ります。」と語り終えるやいなや、天高く風となって七面山へ飛び去っていった。その場に居合わせた人々は随喜の涙を流して感激した。よく知られた日蓮聖人と七面大明神(七面天女)の出会いの場面である。 日蓮聖人はしばしば西谷の草庵から50丁の嶮しい道を身延山(標高1153m)に登り、遥か安房小湊の両親と師の道善房を追慕したという。(現在山頂には奥之院思親閣が建立され、昭和38年開通のロープウェイで簡便に、7分足らずでふもとの久遠寺境内から頂上に着ける)
日蓮聖人は山頂から西方に仰ぐ七面山(標高1989m、日本200名山)にもいつか登り、七面大明神を祀ろうと考えていたが、身体の衰えもありついに願いは叶わなかった。 日蓮聖人入滅後15年目、永仁5年(1297)9月19日、弟子の中でも師孝第一と謳われていた日朗上人は、南部(波木井)実長(当時は出家して日円)らとともに、初めて道なき道の七面山に登った。その折、大きな石の上に七面大明神が姿を現し一行を迎えたという。日朗上人はこの大きな石を影嚮石(ヨウゴウセキ)と名付け、その前に祠を結んで七面大明神を祀った。これが七面山奥之院の開創とされる。(七面大明神を一の池の畔に祀ったとの説もある)
ここで養珠院お万の方のプロフィールを述べる。お万の方は上総勝浦城主正木邦時の娘として天正5年(1577)に生まれ、戦乱で逃れた伊豆の地で成長した。お万の方17歳のとき、沼津本陣で徳川家康(52歳)に見染められ側室となる。その美貌・知性ゆえ、元和2年(1616)75歳で没する家康の晩年において、35歳の年齢差もあり、ことのほか寵愛された女性である。 徳川御三家のうち二家、紀州藩祖徳川頼宣(10男)、水戸藩祖徳川頼房(11男)の生母(頼房の養母は英勝寺開基の英勝院(お勝の方))であり、紀州藩で8代将軍となった吉宗以降14代将軍家茂までの各将軍、孫の水戸光圀や15代将軍となった慶喜をも子孫に残した、まさに徳川家の礎ともいうべき人物である。 熱心な日蓮宗の信徒として、また僧侶に袈裟・衣を布施すること2,000条余り、檀林の興隆、学費の支給、堂塔の建立50余ヶ寺、仏像神像の寄進3,000余体と伝えられる外護丹精(げごたんせい)で知られ、家康の没後髪を下ろし養珠院と号し、徳川家・日蓮宗の発展に尽くした。
明治になる以前、日本の山は女人が登ると山の空気がけがれると信じられ、霊山としての七面山も女人の登山は禁じられていた。女人は赤沢峠の七面山遥拝所で七面山を礼拝し、身延に引き返したという。
寛永17年(1640)養珠院お万の方64歳のとき、夫家康の25回忌法要を大野山本遠寺(ホンノンジ)で修した後、かねてから密かに練っていた、日蓮宗の聖地七面山登詣を身延山に申し入れた。身延山としては大いに驚きあわてて、古来から女人禁止になっていることでもあって、あれこれと言を左右にしてお断りをしようとした。しかし養珠院お万の方は「女人成仏の「法華経」守護の七面大明神(七面天女)のおわすお山に、「法華経」を信ずる女人の登れぬはずはない」と、登拝口の白糸の滝で7日間水垢離をとって身を浄め、衆僧の阻止を振り切り、女人として初めて山頂を極めて、御本殿の七面大明神を礼拝し無事下山した。その後、この山の女人禁制がとかれ、女性の登詣も盛んになったという。さらに正保元年(1644)、養珠院お万の方68歳のとき、2度目の七面山登詣、さらに3回目として77歳で没する前、承応元年(1652)高齢76歳の折にも登詣したと言われる。
なお養珠院お万の方の七面山登詣の時期には異説があり、第1回目を元和5年(1619)43歳、第2回は寛永17年(1640)64歳、第3回を慶安3年(1650)74歳としている。
養珠院お万の方が七面山登詣の言わばベースキャンプとした大野山本遠寺は、山梨県南巨摩郡身延町にある日蓮宗の別格本山である。
慶長13年(1608)慶長の法難の連座を不徳とし、総本山身延山久遠寺を隠退した日遠上人の草庵から始まり、日遠上人を開山、養珠院お万の方を開基として創建された。別名「お万さまの寺」とも称される。養珠院お万の方は二人の子供、紀州藩主徳川頼宣と水戸藩主徳川頼房に命じて大伽藍を寄進させ、境内が整備される。
養珠院お万の方は承応2年(1653)8月21日江戸紀州藩邸において、二人の子とその夫人、孫たちなど、華麗な一族に囲まれて77歳の天寿を全うした。墓所は遺言により、この寺にある師・日遠上人の御廟に並んで、紀州藩主徳川頼宣によりつくられている。
本遠寺は「お万様の寺」というだけあって、関係の宝物を多数所蔵しており一部を記載する。
〇お万の方座像:家康の喪に遭い落飾した折の40歳のお姿。
〇七面山踏み分け杖:お万の方が登山に使った白木の力杖。
〇本堂天井に残る「おみ足の跡」: 七面山第3回最終登山を終え大野に帰ってきたとき、建築中の本堂に用いる材木を、履物で歩くことはいけないと言われ、裸足で歩いたところ、あるヒノキ材についた足跡が削っても消えず、これを板に引いて天井に張った。
なお、お万の方が伊豆の子宝の霊湯、吉奈温泉に湯治に行き、近くの善名寺に祈願をして二人の公子を授かった故事から、あやかりたいとして、吉奈温泉は子宝の湯、善名寺は子宝祈願の寺として有名である。
さて、登山を第一の趣味とする私は、南アルプスの高峰にはいくつも登っているが、七面山は登り残していて、登山することを悲願としており、このたび叶えることができた。
七面山には主として二つの登山口があり、古い道は角瀬から登る裏参道であるが、現在主要道となっている、養珠院お万の方も使った羽衣を登山口とする表参道を登った。春木川にかかる羽衣橋のそばに白糸の滝(お万さまの滝)があり、登詣にあたりここで水垢離をした養珠院お万の方の登山装束の銅像が建てられている。
入山口(1丁目)から、信者にとっての山頂である敬慎院(七面山本社・七面大明神が祀られる、50丁目)まで、歩きやすく整備されたつづら折りの急坂・登山道が続く。信者から寄進されたベンチも各所に設置されている。平成21年に古いものと置き換えられた、丁数が刻まれた新しい石灯篭が、山頂までの行程を親切に示してくれる。途中江戸時代に創立された坊が4カ所あり、休憩所が併設されている。神力坊・2丁目、肝心坊・13丁目、中適坊・23丁目、晴雲坊・36丁目。46丁目の和光門で雰囲気は一変する。
ここから山頂にかけての地域が七面大明神のまします神域で、精進潔斎の聖地となる。門をくぐると広々とした境内域で、この山上によくぞ整備されたと深い感銘を覚える。建物等の木材は一切山の木を使わず、当時は下から人力で運び上げた。二丁ほど登るとお水屋と鐘楼の前にでる。そこから急坂を登り詰めると49丁目、随身門前のご来光遥拝所である。
富士山を正面に、身延山を見下ろし、ここで登山開始後初めてさえぎるもののない絶景を味わうことができる。ここにはライブカメラも設置されていて、インターネットで見ることができる。随身門をくぐると急な石段を下り50丁目敬慎院拝殿の正面に出る。
山上の伽藍は延宝3年(1675)に整備されたが、安永5年(1776)の火災でその多くが失われ、その後復興されたものである。本殿は安永9年(1780)改築上棟されたもので身延町指定文化財である。堂宇の裏に直径150mほどの「一の池」があり、古来一度も水が涸れたことがなく、ある日突然不思議な波紋が広がるという龍神伝説が残る。
敬慎院の登詣者に対する対応は本当に親切で、私一人であったが日帰り登詣者用の広い居間に通され、暖房を入れてもらい、いろいろな話を聞かせていただけて感動した。参籠(宿泊)を行う信徒は、七面大明神御開帳、夕食、夕勤の祈願と供養、別当の法話、消灯前の参籠者同士の語らいの時間を経て、霊山の神懐において就寝、起床、朝勤の祈りの中でご来光遥拝、そして朝食、下山という予定をこなすようである。敬慎院の施設は1,000名余り収容でき、年間2万名が参籠するという。私は登山者として山頂に向かう。
途中「ナナイタガレ」と言われる江戸時代の安政東海大地震で崩れが拡大した、大崩壊した絶壁を見下ろす。
吸い込まれそうで不気味である。七面山はその昔「ナナイタガレの嶽(たけ)」と呼び慣らわされていた。敬慎院から意外と距離を感じて山頂に着く。
山頂は二等三角点を中心に広場になって、方位板も置かれているが展望はない。敬慎院からこの山頂までは、信者も登る50丁の参道とは異なり、一般登山道で登山者のみが訪れる静かな世界である。 (登山口羽衣標高500m、敬慎院標高1710m、山頂標高1989m、標高差1489mは、富士山の5合目から山頂神社までの登山に近似している)
徳川の歴史ではお万の方養珠院をこう評している。「背たけ高くして、器量よく、博学多識にして、文筆を良くし、謡曲音楽を好み、薙刀(なぎなた)は達人の域にあり、仏教を研鑽して信心深く、実に優れたる大賢婦なり」。法号「養珠院殿妙紹日心大姉」、波瀾万丈でありながらも常に良い方向に向かい、いつも好運が待ち受けていた女性信者の信仰の鑑。あらゆる大願を成就し、幸福な生涯を送った養珠院お万の方。七面山登詣にあたり、改めて在りし日の尼公の偉業を偲んだ。(完) (ゆきち 記)
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